こんにちは、杉崎(@sugizaki_web)です。
先日、外部事業者にファシリテートしてもらい、町内の事業者の皆さんと町の未来の方向性について議論してきまして。
田舎はどこでもそうだと思うのですが、自然の景観をはじめ、資源に満ち満ちてますよね。それらは本来、地域に人を呼び込む強力な武器になるはず。
ですが、多くの資源が「点」として独立してしまい、顧客が地域内を回遊する仕組み、つまり「線」や「面」としての連携が欠けていると、せっかくの町の宝も活かせないで終わってしまいます。
経済的な視点から考えてみると、観光客の消費単価は一般的に滞在時間に比例します。
もし長野原に来たお客さんが、一箇所の施設だけで満足して(あるいはそれ以上行く場所が見つからずに)帰宅してしまったら、その経済効果は点に留まることになる。
点で終わらせず、隣の店舗やアクティビティへ回遊が起これば、消費は1.5倍、2倍へと膨らみますよね。
これは単なる売上の足し算ではなく、地域全体の経済圏を広げる掛け算です。
自社の利益を「地域の共有資本」へ
話の中で「私たちが今アップデートすべきは、地域資源の捉え方です」という文脈があって、確かにそうだよなと感じました。
多くの事業者は、目の前の山や川、あるいは歴史的背景を「自社の事業に使えるかどうか」という狭い物差しで判断してしまいがちですが、本来それらは、特定の誰かのものではなく、地域全体で育むべき共有資本である、と。
例えば、カレーにおける福神漬けを「野菜だから別ジャンルだ」と切り捨てる人はいませんよね。
福神漬けのないカレーがどこか物足りないように、地域もまた、異業種が混ざり合い、補完し合うことで初めて「一皿の完成された体験」を提供できるのではないでしょうか。
個々に点在する資源を、地域という一皿でまとめて、どう美味しく魅せるか。
「自分たちが持っているもの」を「みんなの財産」として捉え直す。
その視点の転換こそが、今、長野原町に限らず全国の地方自治体に求められていると思います。
関係人口のポテンシャルにも注目したいところです。
長野原町(田舎)に愛着を持つ外部の人は確実に存在しますが、受け入れ側である住民が分断していては、彼らの熱量を活かし切ることはまず不可能。
内側の分断は、外側から見ると「近寄りがたさ」として映ってしまいますからね。
周囲の人たちに対して、恥ずかしがらずにカッコつけずに「助けて」と言い、隣の人の「困った」を自分事として捉えることが大切だと思います。
これは単なる道徳の話ではなく、ロジカルな生存戦略で。
地域の脆弱性を克服するためには、まず「ジレンマを共有していること自体」を共通の出発点にするべきです。
「隣の人が何をする人ぞ」という時代はとうに終わっています。これからは「隣の人と何を成すか」の時代。
いきなり仲良く手をつなぐのが照れくさいなら、まずは「現状維持は衰退である」という、共通の敵を見つけることから始めてもいい。
同じ地域内に住む者同士、出来ることは沢山あります。
超長期投資としての「教育」という共通言語
では、私たちは一体何を「軸」にして集まればいいのか。
ビジネスの売上も大切ですが、大人の損得勘定だけでつながった組織は、利益が出なくなれば霧散しがち。
なので、「子供の教育」をベースに置くことを個人的には最良かなと考えています。
「自分の子供や、この町で育つ子供たちに、どんな未来を残したいか」という問いに対して「そんなの知ったこっちゃない」と考える大人は一人もいません(そう願いたいです)。
例えば、教育現場と地域の事業者が連携し、子供たちが町の資源を活かしたプロジェクトを立ち上げるとする。
これは単なる職業体験に留まりませんよね。
子供たちが町そのものを面白がり、自分たちの手で何かを変えられると実感すれば、将来彼らが一度町を離れても「長野原に帰ってきたい」と思う、シビックプライドを育めるはず。
今の子供たちに投資することは、20年後の長野原のリーダーであり納税者を育てるという、これ以上ない超長期投資なんですよ。
目先の補助金を得るよりもずっと確実な町の防衛策になりますよね。
ちょっとクサいですけど、今やっているビジネスの先に、誰の笑顔があるのかを忘れてはいけないと思います。
「このままじゃ町はやばい。だから子供たちのために、これだけはやっておこうぜ」と、そう言い合える仲間を何人作ることができるか。
長野原町(田舎)の未来は、誰か一人のヒーローが作るものではありません。
共有資本を分かち合い、分断を対話で埋め、次世代のために汗をかく。そんな住民の思いの総和が、田舎のあり方を新しく塗り替えていきます。






