こんにちは、杉崎(@sugizaki_web)です。
政治と野球の話は人にするな、なんて言われますけどあなたはどう思います?
特に政治的な意見を堂々と述べる人に対して「思想が強い」とか「洗脳されてる?」といった冷ややかな視線が向けられることがありますが、本来、政治に関心を持ち、社会の仕組みを調べ、改善を訴えることは、極めて自然だと思うんですよね。
政治について深く語らず、自分とは無関係な遠い世界の出来事として切り離してダンマリを決め込んだり、「自分はあくまで中立だ」と自認する層こそ不自然です。
ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトは、「政治的無知は最悪の無知である」と問いてます。
政治に関心のない人間は、人生のコスト、パンの値段、家賃、薬の代金がすべて政治的な決定に基づいていることを知らない。
彼は、自分が政治に無関心であることを誇り、胸を張っているが、その無関心が腐敗した政治家を生み出していることに気づいていない、と言った趣旨のことを言っているんですが、まさにその通りですよね。
朝起きてから眠るまで、蛇口から出る水の値段も、コンビニで買うお弁当の価格も、子供たちが受ける教育の内容も、すべては政治というフィルターを通して決定されています。
であるならば、政治に無関心でいることは、「自分の人生の決定権を、見ず知らずの他人に白紙委任する」ことに他なりません。
「洗脳されている」と揶揄される発信者たちは、自ら情報を取捨選択し、論理を組み立てた結果として、既存の価値観に異を唱えています。
一方で、無関心な層は、テレビのワイドショーやSNSの断片的な情報、あるいは「なんとなく世間の空気」という実体のないものによって、気づかぬうちに思考の枠組みを形作られている。
自覚症状のない受動的な洗脳が完成です。
思考停止がもたらす搾取
政治への無関心は、具体的にどのような実害を私たちにもたらしているのでしょうか。
データに基づき、日本社会が直面している現実を直視する必要があります。
まず挙げられるのが、国民負担率の推移です。
財務省の発表によれば、1970年度には24.3%だった国民負担率(所得に対する租税負担と社会保障負担の合計)は、2023年度には46.8%にまで達しています。
つまり、私たちが稼いだお金の約半分は、国や自治体によって徴収されている計算になります。
江戸時代の五公五民に等しい過酷な負担増が、この数十年の間に着実に行われてきた、ということです。
もし、国民の多くが政治に強い関心を持ち、自分たちの血税がどのように使われているかを厳しく監視していれば、ここまでの負担増が進んだでしょうか。
投票率が低下すればするほど、政治家は「浮動票(一般市民の意思)」を恐れる必要がなくなり、組織票を持つ特定の利害関係者や、声を上げない層から確実に徴収できる仕組みを優先するようになります。
次に、現役世代と高齢世代の格差についてです。
日本の社会保障制度は、賦課方式という現役世代が引退世代を支える仕組みをとっています。
少子高齢化が進む中で、このバランスが崩れていることは明白ですよね。
がしかし、選挙における年代別の投票率を見ると、20代から30代の投票率は常に低迷し、60代以上の層とはダブルスコアに近い開きがあるのが常態化しています。

この、シルバー民主主義と呼ばれる状況下では、政治家は必然的に「投票に行く高齢者」に有利な政策を打ち出し、将来世代への投資(教育、育児支援、イノベーション)を後回しにします。
無関心な現役世代は、「自分は政治に興味がないから関係ない」と思っている間に、将来の年金受給額を削られ、現役時代の負担を増され、さらには子供たちの世代に巨大な債務を押し付ける構造を承諾してしまっているわけです。
自らの生活を困窮させる政策に対して反対の声を上げない、あるいはその構造にすら気づかない状態は、強力な情報統制下にあるディストピア小説の世界と本質的に変わりはないと個人的には思っています。
地方政治から始める「情報の非対称性」の打破
この受動的洗脳から脱却し、思考の主導権を取り戻すためには、テレビやSNSで「ただ流れてくる情報を眺めるだけの習慣」を断ち切る必要があるのでは?と考えています。
国政のような巨大なシステムは、一個人の声が届きにくいと感じるかもしれませんが、地方自治体は異なります。
数千人、数万人の規模のコミュニティであれば、一人の議員の提案や、住民の小さな声が、道路の舗装、学校給食の無償化、あるいは新しい産業の創出といった具体的な形として結実するのを目の当たりにすることができます。
現在の地方政治において最大の問題は、圧倒的な情報格差(情報の非対称性)だと考えてます。
つまり、サービスを提供する側(行政・議会)は裏側の事情やコストをすべて把握しているのに、税金を払ってサービスを受ける側(住民)にはパッケージの表面しか見せられていない状態です。
なぜ子育て支援の予算がその額になったのか、教育や移住定住の施策の裏でどんな議論があったのか。
役所や議会のブラックボックスの中で決められた、結果の事後報告だけが押し付けられ、一番重要なプロセスが住民に適切に届いていません。
この情報の偏りこそが、無関心という名の洗脳を育む温床となっています。
重要なのは、情報発信者の役割です。
何度も口酸っぱく言ってますが、政治家は単に事実を羅列するのではなく、それが住民の生活とどう繋がっているのか、どのような利害関係があるのかを、論理的かつ情熱を持って発信する必要があります。
例えば、一見地味な「議会だより」の刷新一つをとっても、それが「住民に議会の実態を知らせ、思考を促すための紙媒体」であると定義すれば、それは単なる広報活動ではなく、民主主義をアップデートする立派なツールになりうるじゃないですか。
事実に基づき、情報を取捨選択して発信する。
その熱量が地域に伝播し、無関心層を少しずつ巻き込んでいくことでしか、既得権益や特定の組織票に依存した古い政治構造は打破できません。
私たちの生活の決定権を取り戻すための戦いは、私たちが暮らす町の議会と、毎日のちょっとした情報の受け取り方の変化から始まるはず。
受動的な洗脳から目覚め、自分の頭で考え、声を上げる。それこそが主権者の姿だと思います。
政治の話はタブーという空気感こそが敵
私たちは今、大きな分岐点に立っているんじゃないですかね。
流されるままに無自覚な被支配層として生きるのか、それとも、自分たちの住む町の未来を、自らの言葉と行動で形作っていく主権者として生きるのか。
「政治の話をするのはタブーだ」「思想が強いのは恥ずかしい」という、誰かが都合よく作り上げた空気感(=洗脳)を打破すべきですよ。
真に自由な人間とは、社会の仕組みを理解し、その設計に主体的に関わろうとする意志を持つ者だけですから。
揶揄されるのを恐れず、その奥にある思考停止を、熱量をもって根気強く解きほぐしていくことが大事。
地方から、一人ひとりが自分の人生の手綱を取り戻す。その第一歩は、目の前の「政治という名の日常」に、強い関心を持つことから始まります。






